moonprayer
 
「冷たい人間」と言われてました
私が重く背負っていると思っているもの、まず1番目は、このことから語ろうと思います。

私は、実は、実家の家族の中では「冷たい性格」だとよく言われていました。
これ以外の評価は聞いた覚えがないくらい。

私の感覚が一般的ならば、人から冷たいと評価されて、嬉しいと喜べる人は、たぶんあまりいないだろうと思った上で書きます。
ほんとに、こういうところから自信のない臆病者でごめんなさい(苦笑)


一番覚えているのは、私が、小学校高学年〜中学生の頃で、ある日、母親と弟たちと居間ですごしていて、それぞれのイメージカラーは何色かという話になった時です。

「お姉ちゃんは、青色 とか 水色 ってイメージだよね」と、誰かが言いました。

私は、自分でもその色が好きだったので、好きな色がそのままイメージカラーとして言われたのを嬉しく思いました。
でも、その理由は「だって、お姉ちゃんは冷たいから」ということでした。
母親と弟たちは、みんな笑って納得していました。

今、客観的に過去の自分を回想し分析してみると、そもそも優しさを表現する術を、たぶん私はまだ知らなかったのだと思います。
過去記事(「私も、母も弟も寂しかった」)で書いたとおり、私は母親に対して寂しい思いを持っていたし、弟たちに嫉妬の心も持っていたと思います。
その心は、弟たちに対する小さな意地悪に表れたり、母親に対する距離をおいた態度になったりして、それは「冷たい態度」と映っても当然だったと思います。

でも、家族、特に親からの評価というのは、やはり特別なものがありますよね。
それがもう絶対的な正解だと、子供は思ってしまいます。

私って、冷たい人間だとみんなに思われているんだ・・・

何のたわいもないやりとりだったはずなのに、今もこうして忘れられないでいるということは、その時は全然自覚しなかったけれど、少なからずこの言葉で自分は傷ついたんだな、と。
弱点だったのだな、と理解しました。


そして、いつしかそれは、

私がみんなから愛されていないと寂しく思っていたのは、私が冷たい人間だったからだ。

冷たい人間は、良くない人間だ。

自分は、冷たい人間だから、良くない人間で、不要な人間なんだ。

自分=不要な人間

という、落ち込み思考のスパイラルにおちいってしまっていたというわけです。


愛されて、この寂しさから逃れるには、私は、このままの自分じゃいけなんだ。
人に優しくして愛されるように、なんとかがんばらなくちゃいけない。
色で例えるなら、オレンジ色柔らかい緑色 とイメージしてもらえるような人間に。

人間関係に失敗するたびに、ますますその思いに囚われていき、
さらに、際限なく、過剰なまでに誰にでも優しくあろうとする人間になっていってしまいました。


でも、神様の目には、一人一人、誰もがすでに虹色に輝いて見えているのかもしれませんね。
---
わたしの目には、あなたは高価で尊い。
わたしはあなたを愛している。
(旧約聖書 イザヤ書 43章4節)
---

いい子で優しくがんばる子だから愛されるのではなくて、
「ただそのままで、もうすでに神様に愛されている」ということを、
まずこの自分がしっかりと心に刻み直して、神様に癒していただき、覚えていけたらと思います。

次の自分のために準備する
「人生とは何か?」という問いに、徳川家康は、「人の一生は 重荷を負うて 遠き道を行くがごとし」という名言を残しました。私も、そのとおりだと思います。

イエス様は、そんな私たちに向かって、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい」と招いてくださいました。そして、「あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい」と教えられます。なぜなら、「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いから」と。

この、背負っている荷物は、その人の人格形成に大きく影響をしていると、私は思っています。
私も、自分が背負っていると思っているものの影響を少なからず受けて、こういう自分になっていると感じているからです。
それは、ある人から言われた言葉だったり、体験した出来事だったり。

今まで私は、こういうことをほとんど語ってきませんでした。なぜなら、お恥ずかしいことですが、こういうことを語り合い、ゆっくり分かち合えるだけの心親しい友というものを、私は持っていなかったからです。
私にとって、心を見せられるほどの友というのは、やっとこれからかなという頃に必ず私を嫌いになり、私から離れて、いなくなっていく存在でしかなかったのです。(推測される原因は、たぶんこれ→「今日気づいた自分の傷」)
そんな失敗と後悔と悲しみを繰り返すうちに、私は、誰かと親しくなることを強く恐れるようになり、人が怖くなり、そして、最後には自分が早くこの世からいなくなりたいと願うようになる。
私は、本当に自分がかなり嫌いなのです。
でも、神様は、それでも何かを私に伝えようとして、別の人の何気ない言葉や、目に止まった本、その他さまざまな出来事などを使って、時を逃さず常に私を慰め、励まし導き続けてくださっています。それだけは、いつも感じているのです。
私は、もっと神様から、受け取りたいと思うのです。

今年で、私は34歳になります。20代の時は、30代の自分のために準備をしてきたので、30代半ばにもさしかかったことだし、そろそろまた次の年代に向けて、私は準備をしたくなっています。
そのためにも、今年はとにかく、自分の背負っている重いものを、文章という形にすることによって、もう少し軽くすることを目的に、ひとつ取り組んでみたいと思います。

今日気づいた自分の傷
今日、また一つ、自分の悪いところ、自分が気づかず犯してしまっていた罪に気づかされました。

実は私は、すごく痛い言い方をするんです。言い過ぎるんです。
本気でそう思っているわけではないのに、ものすごく極端な、キツイ言い方をするんです。
挑発・・・してしまうんです。

でも、それは、自分としては、どこか相手に期待している心の表れでした。
こう言ったら、相手はどんなふうに言い返してきてくれるだろう、
このくらいは、許されるだろうという、ゆがんだ期待と甘えの心でした。

でも、言われた方は、すごくダメージが大きいんですよね。
私が思っているよりも、傷ついているんです。


だけど、なぜ、こんな自分になってしまっていたのかを、
じっくり自分と向き合って、考えてみました。
そして、わかりました・・・私自身に、過去にそうされて傷ついた出来事があったからです。
私は、その、「仕返し」をしていたのでした。
別の人に、八つ当たりをしていたのです。「報復の心」だったのです。

「目には目。歯には歯。」

この言葉を、やられたらやり返せ、という教えだと、多くの人は思っています。
でも、イエス様は、復讐をやめて、かえって相手によくしてやりなさいと、新しく私たちに教えられました。
私は、この「報復の心」の連鎖を、ここで止めなくてはいけなかったのです。
でも、今も、まったくできていませんでした。

犯してきてしまった罪は、もう取り返すことはできません。
イエス様の身代わりの十字架の死によって、あがなっていただくしか、できないのです。

私の罪のために、私の身代わりとなって死んでくださったイエス様。
2000年経って、私がこうしてクリスチャンになった今もなお、
この私のために、そうしてくださっている。

ごめんなさい。私は、言い過ぎて、挑発して、人を傷つけるという罪を犯し続けていました。
それに、気づいていませんでした。
過去に私をそうやって傷つけた人たちを、赦していたつもりでしたけれど、
まだこんなにも赦せていなかった自分に気づかされました。
今、それに気づきました。
気づけたからといって、すぐにそれを完全に改められる自信はありません。
けれど、こうして気づかせていただけたことだけは、今すぐに感謝と賛美を捧げたいです。

自分への課題が、また一つもてました。

休み遊んでいるときでも
神様は、一人一人の賜物と必要を、私たちよりも完全にご存知です。
私も、ことあるごとに、それを自分の身に体験させられます。

神様を知る前、とにかく、かたくななまでにまじめで、
融通が利かないくらい堅苦しい域にまでいってしまっていた私。
神様にこうして、直接面倒をみてもらうようになって、
神様が私にまず教えてくださったことは、「遊ぶこと」でした。
もちろん、ハメをはずして、ということではありませんので、念のため。


まず、その最たる存在は、旦那さんです。
彼は、本当に私の尊敬する、私の目標とするクリスチャンの代表とも言える人なのですが、
彼はテレビゲームがとても好きな人です。
とは言っても、あまりにもリアルに暴力的・破壊的なのが特徴なものは好みません。
アドベンチャーとか、推理サスペンスとか、ファンタジーとか、そういう種類のものです。
カートゲームや、パーティゲームなどは、誘われて二人で一緒に遊ぶこともあります。
「気持ちのゆとり」をもつことが、私には必要だと、神様は考えてくださっていたのだと思います。

それを感じて、私は、自分からも積極的に遊ぼうとするようになりました。
例えば、こんな遊びをしています。

m804061.png

これは、とあるオンラインゲーム内での、私の姿です。
真夜中にこそ仕事をしなくてはいけない状態の時の旦那さんの横で、
掃除や洗濯や外出などもできない時間に、頭も思考も休めることができるように、
読書などではなく、PCを使ってのんびり一人で静かに遊べるもの・・・と考えて、
たどりついたものです。

m804062.png

でも、こんなふうに、弱い自分のために、神様を忘れない工夫もします。
そうすると、自分の行動や発言の際に、とっさの時にも、
「待て! 神様が見てる! こんな時は・・・」と、一呼吸おいて、
神様から離れずいられるからです。
また、顔の見えないインターネットの世界で、人から心無いことを受けることもあります。
その時も、「こんな時だって、私には神様がともにいてくださる」と、勇気を与えられて、
早く赦せて、心穏やかになれます。

教会で仲間とともに礼拝をし、賛美を捧げている時でも、
神様の創られた大自然の中で、感謝の深呼吸をする時でも、
家の中で、パソコンに一人黙々と向かう時でも。
真剣な学びの時でも、心休めるための遊びの時でも。

私たちが神様から離れず、神様を慕い求める時、
私たちのいるところに、必ず神様は、そこにしっかりと、ともにいてくださいます。

今年考えていること
今年、ずっと考えていることがあります。
いつもの私なら、そういうことは、まず自分である程度結論がもてるまでは、あまり人前で口にしないのだけれど、これはなぜかそういう思いになれないのです。
それだけ、自分にはかなり難しくて、すぐには答えを見つけ出せない気がするからかな。

新しい季節を迎えて、なんだか今、いいきっかけのような気がするので、
思いきって、その課題にしていることを、書いてみたいと思います。


---
『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』
(新約聖書 マタイの福音書 4章4節)
---

という、有名なみことばがあります。私も大好きなみことばの一つです。
アーメン! って思います。


だけど、もし、とても熱心なパン職人さんに、

「パンの悪口が書かれているから、聖書は嫌いだ」

と言われたら、このパン職人さんに、イエス様と出会うことの喜びを伝えられる言葉を、
今の私は、もっていない。
ああ、そう受け取ってしまう気持ちもわかる・・・と思ってしまう。
笑顔で食べてくれるみんなのために、情熱をもって、誰よりもパンを愛しているからこそ、
そんなふうに言われたら、悲しく思って当然だと。

聖書は、そういうことを言いたいわけではない、ということはわかっている。
パン職人さんの、その熱い思いこそが、逆に、充分に御心に近いとさえ感じる。
でも、まずこのパン職人さんの誤解をとき、喜びをもって神様と和解してもらうために、
私はどんな言葉を準備しておいたらいいんだろう。

もし、こういうときが来たら、私はどうすればいい・・・?

こんなことを、今年ずっと考えさせられています。

・・・まだ、ぜんっぜん、わかりません;;

プロフィール

moonprayer / Mie

最近の記事

最近のコメント

カテゴリー

月別アーカイブ

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク

このブログをリンクに追加する

ブログ内検索

RSSフィード