moonprayer
 
私も、母も弟も寂しかった
私は、幼い頃、両親と一緒の寝室で寝たことがない。
祖母が、長女第一子である私を非常にかわいがって、私はずっと祖母と、祖母の部屋で寝ていました。
だけど私は、物心ついた時、両親(特に母親)と一緒に寝ている弟たちがうらやましいと思った。
私は、母との思い出が少ないことに、寂しさを感じるようになった。
私は、母からは、弟たちのようには愛されていない・・・そんなふうに思って、甘えることを上手く覚えられなかった。

20歳になった頃、きっかけがあって、母親に、自分はずっとそんなふうに寂しく思っていたことを打ち明けた。
そうすると母は、涙を浮かべて言った。「私も、あんた(Mie)が、お祖母ちゃんに取られてしまって、手をかけて面倒をみてやれなくて悲しかった。洋服も作ってやりたかったし、仲良く手をつないで一緒に歩いている母娘を見るたびに、とても寂しく思っていた」と。
私のこと、そんなふうに思ってくれてたんや・・・って、びっくりした。


また、私に一番近い2歳下の弟は、中学〜高校の時に、思春期特有のすごい反抗期になって、両親を悩ませていた。
私は、それを腹立たしく思っていた。なんで、ちょっと考えたらわかるような、そんな悪いことをするんだろうと、理解できなかった。
でも、これも同じく私が20歳頃の時、私は、わがままし放題の弟の態度に、とうとう怒りを爆発させて、弟ととっくみあいのケンカをした。
小さい頃から、この弟とだけはそんなケンカをする仲だったが、20歳にもなった姉と、ヤンキーの弟で、つかみ合い、叩きあいのケンカをした。
その時、弟は私に叫んだ。「姉ちゃんがうらやましい! 成績も良くていい子で、皆にかわいがられて! でも、俺は落ちこぼれで、家でもいっつも一人で寂しかった!!」と。
なに言っとんねん・・・うらやましく思ってたのは私の方なのに・・・
弟同士(4人姉弟)で、私はあんたたちが一緒に遊んでる中に入れなくて、私の方こそ、あんたのこと、うらやましく思ってたのに・・・
ちっちゃい頃から、あんたはお母さんたちと一緒にいて、私の方が寂しかったのに・・・
悪いことして、みんなに心配してもらって、私はそんなことなんかしてもらったことなくて、あんたの方が何十倍もうらやましいと思ってたのに・・・
でも、あんたは真ん中の子で、私とかさらに下の弟のこととか、そんなふうに見てたんやね・・・

なんや・・・お母さんも、弟も、みんな似たような寂しさ抱えて、お互いに誰かをうらやましく思ったりして、ずっと過ごしてたんか・・・

それが分かった時、心の目が開かれた気がしました。


今こうして、当時の母親の年齢をなぞるようになってきて、本当によくわかる。
母親だって、こんな若い人間だったんだな・・・って。
普通に悩んで、寂しく思って、それでも一生懸命、私たちに接してくれてたんだな・・・って。
そして、若い時の自分を振り返って、改めて恥ずかしく思う。
親ってもんを、大人ってもんを、自分と同じ人間扱いしてなかった。
自分勝手なこと言って、傷つけること言ったり、やったりしても、なんとも思ってなかった。
その言葉を、自分よりも若い人に言われたら、こんなにも悲しかったんだ・・・って。
今自分がそう思うように・・・他の人にも、こんなことをしてきてしまったんだなって・・・

子供だって、大人だって、女性だって、男性だって、
みんな、なんだかんだいって、同じような寂しい思いを抱えて生きているんだなって、
語りつくせないいろんなものを、一人ひとり、それぞれに、
いっぱい背負って生きてるんだな・・・って。

少なくともこの自分がそうであるように・・・みんなもそうなんだなって・・・


今、母親とは、あいかわらずお互いに、ちょっとだけ遠慮がちな、おもはゆい関係ではあるけれど、母が電話などで、ちょくちょく愚痴を私に預けてくれるのが、感謝な役目だなと思っている。
私は、預けられるそれらに、聖書の教えを守りながら、自分が今もっているかぎりのとりなしの言葉を尽くし返すことで、日々の実践の中で、神様に鍛えられていると感じている。
そして、同じ歌手のCDをお互いに買っていたりして、「そうそう。これいいよね!」と、一緒に盛り上がれる瞬間が、とても幸せだなと思う。

また、その弟は、中学生の頃から弟を好いてくれていた幼なじみの同級生の女性と、地元で結婚をして、子供も産まれて、夜勤のある奥さんの代わりに子育ても積極的に参加する、むちゃくちゃいいパパをしている。
彼が私の生家の長男でいてくれて、私の方こそ尊敬せずにはいられないほどの、カッコいい弟でいてくれて、私は本当に幸せな姉だなと思う。

あと二人弟がいるけど、彼らもまた、それなりに毎日、なにかを思いながらいるんだろうと思う。
だって、この私だって、その年代の頃、そうだったんだから。
今度機会があったら、私のこの昔話でもして、あんたもなんか寂しい思いとか持ってたりしたん? と、ぶっちゃけトークができたらいいなと思っている。
そんなこと思わずに、のほほんとしてくれてたなら、それはそれでよかったなと、安心すればいいだけのこと。
でも、そうじゃなかったなら、遅くなったけれど、今からでも、知ってあげられたらと思う。
まぁ・・・知ったからといって、それ以上なにかができるというわけでもないんだけどね。
だけど、ごめんねって、謝るだけはしなくちゃなと思ってます。
そして、変わらず応援して、最後まで神様に彼らの祝福を祈り続けなくちゃなと、
私がこれからできることとして、使命感をもって、強く思っています。

---
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』

(旧約聖書 レビ記 19章18節)
(新約聖書 マタイの福音書 19章19節)
(新約聖書 マタイの福音書 22章39節)
(新約聖書 マルコの福音書 12章31節)
(新約聖書 ルカの福音書 10章27節)
(新約聖書 ローマ人への手紙 13章9節)
(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 5章14節)
(新約聖書 ヤコブの手紙 2章8節)
---

このみことばを学ぶ時、私がいつも思うのは、母と弟との、この出来事。
私がずっと、寂しいと思ってしまっていたように、母も、弟も、みんな同じようにそう思っていたんだということが心から分かった、絶対に忘れられない、この出来事。

この出来事は、間違いなく、私の基本姿勢の土台の一部になっている、宝物の出来事です。

今年考えていること
今年、ずっと考えていることがあります。
いつもの私なら、そういうことは、まず自分である程度結論がもてるまでは、あまり人前で口にしないのだけれど、これはなぜかそういう思いになれないのです。
それだけ、自分にはかなり難しくて、すぐには答えを見つけ出せない気がするからかな。

新しい季節を迎えて、なんだか今、いいきっかけのような気がするので、
思いきって、その課題にしていることを、書いてみたいと思います。


---
『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』
(新約聖書 マタイの福音書 4章4節)
---

という、有名なみことばがあります。私も大好きなみことばの一つです。
アーメン! って思います。


だけど、もし、とても熱心なパン職人さんに、

「パンの悪口が書かれているから、聖書は嫌いだ」

と言われたら、このパン職人さんに、イエス様と出会うことの喜びを伝えられる言葉を、
今の私は、もっていない。
ああ、そう受け取ってしまう気持ちもわかる・・・と思ってしまう。
笑顔で食べてくれるみんなのために、情熱をもって、誰よりもパンを愛しているからこそ、
そんなふうに言われたら、悲しく思って当然だと。

聖書は、そういうことを言いたいわけではない、ということはわかっている。
パン職人さんの、その熱い思いこそが、逆に、充分に御心に近いとさえ感じる。
でも、まずこのパン職人さんの誤解をとき、喜びをもって神様と和解してもらうために、
私はどんな言葉を準備しておいたらいいんだろう。

もし、こういうときが来たら、私はどうすればいい・・・?

こんなことを、今年ずっと考えさせられています。

・・・まだ、ぜんっぜん、わかりません;;

休み遊んでいるときでも
神様は、一人一人の賜物と必要を、私たちよりも完全にご存知です。
私も、ことあるごとに、それを自分の身に体験させられます。

神様を知る前、とにかく、かたくななまでにまじめで、
融通が利かないくらい堅苦しい域にまでいってしまっていた私。
神様にこうして、直接面倒をみてもらうようになって、
神様が私にまず教えてくださったことは、「遊ぶこと」でした。
もちろん、ハメをはずして、ということではありませんので、念のため。


まず、その最たる存在は、旦那さんです。
彼は、本当に私の尊敬する、私の目標とするクリスチャンの代表とも言える人なのですが、
彼はテレビゲームがとても好きな人です。
とは言っても、あまりにもリアルに暴力的・破壊的なのが特徴なものは好みません。
アドベンチャーとか、推理サスペンスとか、ファンタジーとか、そういう種類のものです。
カートゲームや、パーティゲームなどは、誘われて二人で一緒に遊ぶこともあります。
「気持ちのゆとり」をもつことが、私には必要だと、神様は考えてくださっていたのだと思います。

それを感じて、私は、自分からも積極的に遊ぼうとするようになりました。
例えば、こんな遊びをしています。

m804061.png

これは、とあるオンラインゲーム内での、私の姿です。
真夜中にこそ仕事をしなくてはいけない状態の時の旦那さんの横で、
掃除や洗濯や外出などもできない時間に、頭も思考も休めることができるように、
読書などではなく、PCを使ってのんびり一人で静かに遊べるもの・・・と考えて、
たどりついたものです。

m804062.png

でも、こんなふうに、弱い自分のために、神様を忘れない工夫もします。
そうすると、自分の行動や発言の際に、とっさの時にも、
「待て! 神様が見てる! こんな時は・・・」と、一呼吸おいて、
神様から離れずいられるからです。
また、顔の見えないインターネットの世界で、人から心無いことを受けることもあります。
その時も、「こんな時だって、私には神様がともにいてくださる」と、勇気を与えられて、
早く赦せて、心穏やかになれます。

教会で仲間とともに礼拝をし、賛美を捧げている時でも、
神様の創られた大自然の中で、感謝の深呼吸をする時でも、
家の中で、パソコンに一人黙々と向かう時でも。
真剣な学びの時でも、心休めるための遊びの時でも。

私たちが神様から離れず、神様を慕い求める時、
私たちのいるところに、必ず神様は、そこにしっかりと、ともにいてくださいます。

今日気づいた自分の傷
今日、また一つ、自分の悪いところ、自分が気づかず犯してしまっていた罪に気づかされました。

実は私は、すごく痛い言い方をするんです。言い過ぎるんです。
本気でそう思っているわけではないのに、ものすごく極端な、キツイ言い方をするんです。
挑発・・・してしまうんです。

でも、それは、自分としては、どこか相手に期待している心の表れでした。
こう言ったら、相手はどんなふうに言い返してきてくれるだろう、
このくらいは、許されるだろうという、ゆがんだ期待と甘えの心でした。

でも、言われた方は、すごくダメージが大きいんですよね。
私が思っているよりも、傷ついているんです。


だけど、なぜ、こんな自分になってしまっていたのかを、
じっくり自分と向き合って、考えてみました。
そして、わかりました・・・私自身に、過去にそうされて傷ついた出来事があったからです。
私は、その、「仕返し」をしていたのでした。
別の人に、八つ当たりをしていたのです。「報復の心」だったのです。

「目には目。歯には歯。」

この言葉を、やられたらやり返せ、という教えだと、多くの人は思っています。
でも、イエス様は、復讐をやめて、かえって相手によくしてやりなさいと、新しく私たちに教えられました。
私は、この「報復の心」の連鎖を、ここで止めなくてはいけなかったのです。
でも、今も、まったくできていませんでした。

犯してきてしまった罪は、もう取り返すことはできません。
イエス様の身代わりの十字架の死によって、あがなっていただくしか、できないのです。

私の罪のために、私の身代わりとなって死んでくださったイエス様。
2000年経って、私がこうしてクリスチャンになった今もなお、
この私のために、そうしてくださっている。

ごめんなさい。私は、言い過ぎて、挑発して、人を傷つけるという罪を犯し続けていました。
それに、気づいていませんでした。
過去に私をそうやって傷つけた人たちを、赦していたつもりでしたけれど、
まだこんなにも赦せていなかった自分に気づかされました。
今、それに気づきました。
気づけたからといって、すぐにそれを完全に改められる自信はありません。
けれど、こうして気づかせていただけたことだけは、今すぐに感謝と賛美を捧げたいです。

自分への課題が、また一つもてました。

次の自分のために準備する
「人生とは何か?」という問いに、徳川家康は、「人の一生は 重荷を負うて 遠き道を行くがごとし」という名言を残しました。私も、そのとおりだと思います。

イエス様は、そんな私たちに向かって、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい」と招いてくださいました。そして、「あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい」と教えられます。なぜなら、「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いから」と。

この、背負っている荷物は、その人の人格形成に大きく影響をしていると、私は思っています。
私も、自分が背負っていると思っているものの影響を少なからず受けて、こういう自分になっていると感じているからです。
それは、ある人から言われた言葉だったり、体験した出来事だったり。

今まで私は、こういうことをほとんど語ってきませんでした。なぜなら、お恥ずかしいことですが、こういうことを語り合い、ゆっくり分かち合えるだけの心親しい友というものを、私は持っていなかったからです。
私にとって、心を見せられるほどの友というのは、やっとこれからかなという頃に必ず私を嫌いになり、私から離れて、いなくなっていく存在でしかなかったのです。(推測される原因は、たぶんこれ→「今日気づいた自分の傷」)
そんな失敗と後悔と悲しみを繰り返すうちに、私は、誰かと親しくなることを強く恐れるようになり、人が怖くなり、そして、最後には自分が早くこの世からいなくなりたいと願うようになる。
私は、本当に自分がかなり嫌いなのです。
でも、神様は、それでも何かを私に伝えようとして、別の人の何気ない言葉や、目に止まった本、その他さまざまな出来事などを使って、時を逃さず常に私を慰め、励まし導き続けてくださっています。それだけは、いつも感じているのです。
私は、もっと神様から、受け取りたいと思うのです。

今年で、私は34歳になります。20代の時は、30代の自分のために準備をしてきたので、30代半ばにもさしかかったことだし、そろそろまた次の年代に向けて、私は準備をしたくなっています。
そのためにも、今年はとにかく、自分の背負っている重いものを、文章という形にすることによって、もう少し軽くすることを目的に、ひとつ取り組んでみたいと思います。

「冷たい人間」と言われてました
私が重く背負っていると思っているもの、まず1番目は、このことから語ろうと思います。

私は、実は、実家の家族の中では「冷たい性格」だとよく言われていました。
これ以外の評価は聞いた覚えがないくらい。

私の感覚が一般的ならば、人から冷たいと評価されて、嬉しいと喜べる人は、たぶんあまりいないだろうと思った上で書きます。
ほんとに、こういうところから自信のない臆病者でごめんなさい(苦笑)


一番覚えているのは、私が、小学校高学年〜中学生の頃で、ある日、母親と弟たちと居間ですごしていて、それぞれのイメージカラーは何色かという話になった時です。

「お姉ちゃんは、青色 とか 水色 ってイメージだよね」と、誰かが言いました。

私は、自分でもその色が好きだったので、好きな色がそのままイメージカラーとして言われたのを嬉しく思いました。
でも、その理由は「だって、お姉ちゃんは冷たいから」ということでした。
母親と弟たちは、みんな笑って納得していました。

今、客観的に過去の自分を回想し分析してみると、そもそも優しさを表現する術を、たぶん私はまだ知らなかったのだと思います。
過去記事(「私も、母も弟も寂しかった」)で書いたとおり、私は母親に対して寂しい思いを持っていたし、弟たちに嫉妬の心も持っていたと思います。
その心は、弟たちに対する小さな意地悪に表れたり、母親に対する距離をおいた態度になったりして、それは「冷たい態度」と映っても当然だったと思います。

でも、家族、特に親からの評価というのは、やはり特別なものがありますよね。
それがもう絶対的な正解だと、子供は思ってしまいます。

私って、冷たい人間だとみんなに思われているんだ・・・

何のたわいもないやりとりだったはずなのに、今もこうして忘れられないでいるということは、その時は全然自覚しなかったけれど、少なからずこの言葉で自分は傷ついたんだな、と。
弱点だったのだな、と理解しました。


そして、いつしかそれは、

私がみんなから愛されていないと寂しく思っていたのは、私が冷たい人間だったからだ。

冷たい人間は、良くない人間だ。

自分は、冷たい人間だから、良くない人間で、不要な人間なんだ。

自分=不要な人間

という、落ち込み思考のスパイラルにおちいってしまっていたというわけです。


愛されて、この寂しさから逃れるには、私は、このままの自分じゃいけなんだ。
人に優しくして愛されるように、なんとかがんばらなくちゃいけない。
色で例えるなら、オレンジ色柔らかい緑色 とイメージしてもらえるような人間に。

人間関係に失敗するたびに、ますますその思いに囚われていき、
さらに、際限なく、過剰なまでに誰にでも優しくあろうとする人間になっていってしまいました。


でも、神様の目には、一人一人、誰もがすでに虹色に輝いて見えているのかもしれませんね。
---
わたしの目には、あなたは高価で尊い。
わたしはあなたを愛している。
(旧約聖書 イザヤ書 43章4節)
---

いい子で優しくがんばる子だから愛されるのではなくて、
「ただそのままで、もうすでに神様に愛されている」ということを、
まずこの自分がしっかりと心に刻み直して、神様に癒していただき、覚えていけたらと思います。

実は、クリスチャンが怖い
私が重く背負っているもの、2番目は、これです。
この場でこれを語ることに、強い恐れがあります。
ですが、私が自分を語る時に、これはどうしてもはずせないことなので、
神様の前だと思って、正直に打ち明けてみたいと思います。


私は、高校2年生の時、たぶんいじめと分類される出来事を体験しました。
私にそうしたのは、つい前日まで、親友だと言い合うほどの仲だった女友達で、
ある日突然、彼女は、私を無視しはじめたのです。
明らかに、私がそこに存在していないというような態度の、「無視」といういじめでした。

直接理由を聞くことがどうしても叶わなかったので、
なんとか別の友人に、その理由を聞いてもらったところ、
「あいつは、偽善者で八方美人だから嫌い」ということでした。


前記事で書いたとおり、私は「誰にでも優しくあろうとする人間」になっていたせいで、
彼女にとって、私は、誰にでも愛想をふりまく、卑しい女だというふうに映ったようです。
これも、まぁよくありがちな展開ですね(苦笑)

でも、私はけして裏心があって、愛想をふりまくとか、そうしていたわけではありませんでした。
みんなそれぞれに、なんだかんだと悩みを抱えていて、一生懸命生きているんだなということがわかってしまうから、それを冷たく突き放すことは、自分自身にそうしてしまうことになりそうで、できなかったのです。

そういう私の態度が、彼女は不快だったのですね。
どうしようもなかったところもあったけど、もっと私も、やりようがあったかもなぁと、今では思います。


それ以来、私を不快に思い、嫌いだと言ってくる人の理由は、

「Mie は、偽善者くさくて、誰にでもいい顔をするから嫌い」

ほぼいつもこれですね。

「義人はいない」と、そもそも完全な善者はイエス様以外ひとりもいないのだからと、
神様は私を慰めてくださいますが・・・

そして、クリスチャンは、この"偽善者"という言葉がとてつもなく嫌いですよね。
だから、偽善者とすぐ言われやすい私は、クリスチャンが、けっこう怖いのです。

新約聖書 マタイの福音書 6章に、偽善者についての注意が書かれてあります。
トイレで祈るということも、これを固く守るための気持ちの表れでした。
奉仕活動などにかすかな恐れを感じることも、この気持ちからきています。


「自分自身にするように、隣人に対して心を尽くせ」という教えと、
「偽善者のようであってはならない」という教え。

一歩でも横に足を踏み外せない状態の細道に、私はいつも立たされていると感じてきました。
このバランスを保つためには、私はそのつどただ主に祈り、判断を仰ぐために、
一生すがりついていくしかないと・・・覚悟というに近い感情で、いつも思っています。
それでもなお、失敗しやすい私です。


以上、この2つ、

家族からは、冷たいと言われること と、
友達からは、偽善者と言われること が、

私が一番重いと思って背負っている荷物です。

空の器
けっこう前から自覚して思っていたことだけれど、
今年、こうしてブログ村で、いろんな人が語ることを読んでいて、
ますます思うことがあります。

なんで、こんなに自分は、自分の考えというものが固まらないのか?

同じクリスチャンとはいえ、これだけ、いろんなたくさんの人が思い思いに語っている中で。
しかも、対立するような熱い議論が繰り広げられているような場においてさえも、
各サイドの主張に、なるほどな〜とうなずいてしまっている自分がいる。

そうして、悟る。

ああ、私は、本当に空っぽの器なんだなぁ。

自分の中には、本当にたいしたものなんかなんにも入っちゃいない、
つくづく、ただの空の器でしかないんだと、思い知らされる。


・・・だけど、それにしても。

いくらなんでも、これは固まらなさすぎなんじゃないのか?
いくら空の器とはいえ、どんなに小さな器であろうとも、穴だらけの器であろうとも、
仮にも器の類であるというのなら、少しくらいは骨格みたいなものがあるだろうに・・・

この自分の固まらなさは、さすがに異常じゃないのか?

なんだろう。器系、入れ物系で、固まらない変幻自在のものがあるのか?

・・・・・・(しばし、考える)。

あ、あった・・・!

布。
布ってどうだ。

布製の袋。
しかも、旅行カバンとか、ブランドバッグの類じゃないな。
あくまでも普段使いの、手提げ袋系。
そして、1枚布でもないな。この私のバラバラ具合、寄せ集め具合は、
はぎれ布を合わせた、そんな手提げ袋だ。

ふむ・・・イエス様の手提げ袋か・・・(手提げ袋を持ってくださっている御姿を想像する)


(笑)。全然、悪くない。

むしろ、けっこう好きかも。

いいじゃん。この位置。イエス様の手提げ袋。むちゃくちゃいい役だ。


固まれないなら、どこまでも、いつまでも、固まらないでいこう。
ガチガチで固い手提げ袋なんて、それこそ使えたもんじゃない。


痛む胸がないわけじゃない。できないことに焦る思いがないわけじゃない。
でも、私には、私にしかなれない役がある。
それを、しっかりつかんでいると、
神様、今日、こうしてまた少し、思ってもいいですか。

私は、本当にただの空の器だ。
だけど、神様にしっかりと愛され用いられている、たった一つの器のなにかだ。

ね。イエス様。

クリスチャンブロガーへの6つの質問
HOLD ME JESUS」のTaikaさんが、前に、「クリスチャンブロガーへの6つの質問」
という記事を書いておられました。
私もいつか、自分のブログでこの題材をお借りしたいと宣言をしていて、
そろそろある程度、自ブログの雰囲気が固まってきたように思うので、
遅まきながら、ここで一度、自分の考えを明確にしておきたいと思います。


「クリスチャンブロガーへの6つの質問」

質問1 「あなたがクリスチャンブログを始めようと思ったきっかけは何ですか?」
一番のきっかけは、やはりブログ村という、クリスチャンブロガーのコミュニティの存在を
知ったからですね。(2007年12月初旬でした)
私は、どちらかというと、自分が書くよりも人の書いたものを読む方が好きなので、
本当は人様のブログに通うだけでもいいのですが、それだと、こちらは相手のことを
知っていけるけれども、相手は私に対してそれができにくく、コメント部分だけでは
交流が一方通行に偏りがちになってしまいます。
それでは、ちょっと申し訳ない気がしたので、このブログは自己紹介というか、
身分証明書といった位置づけで始めました。

質問2 「あなたのブログの特徴・アピールしたい部分を教えて下さい」
ブログだけでなく、私の信仰生活全体において、私の一番の目的と願いは、
"キリスト教に無関心"だったり、"キリスト教が大嫌い"という人に、
"キリスト教に悪い気はしていない"レベルにまで、なってもらいたいということです。
これは、「ツトムジャーナル」を運営されている、ツトムさんのメルマガを
読ませていただいて、明確になったことです。(改めて感謝!)

これによって、私は、この御言葉を大事にしています。
---
律法を持たない人々に対しては、─ 私は神の律法の外にある者ではなく、
キリストの律法を守る者ですが ─ 律法を持たない者のようになりました。
それは律法を持たない人々を獲得するためです。
(新約聖書 コリント人への手紙第一 9章21節)
---
今年考えていること」で書いたことも、この思いから生まれた自分への課題です。

普通の暮らしの中に自然に溶け込みながら、普段の言葉遣いや行動の中に、
こっそりしっかり神様の力を沁み込ませて、周囲に伝えていければと思っています。

質問3 「更新していくうえで、心がけていることがあったら、教えて下さい」
私の場合は、気負わずゆっくり書くこと・・・かな。

質問4 「ブログを通して神様がしてくださったことって、ありますか?」
毎日がどっぷり神様漬けになれたこと。
毎日、いろんな人からたくさん神様の話を聞けるようになって、
ますますいっぱい神様のことを考えるようになりました。
信仰の友達もたくさん増えて、本当に感謝な毎日です♪

質問5 「これから、ブログやネットを通して活動していくうえで、神様に願い求めたいことはありますか?」
今はまず、神様と自分の1対1の関係をしっかり築き、一クリスチャンとして
きちんと自立することを考えています。
というのは、私は、結婚後にクリスチャンになったので、高校生の時からクリスチャンの夫とは、
10年近くの信仰の年齢差があります。
そのため、今までは私ばかりが守ってもらい、支えてもらうばかりでした。
人生のパートナーとして、これからはもっと自発的に夫を支えられる妻になっていくことが
できるよう、こういうブログの場を活用して、一クリスチャンとして成長し、
先を歩く夫の信仰に追いついていきたいと願っています。

質問6 「これからブログを始めてみようかな…と思っているクリスチャンの皆さんに一言」
無理にいつも神様のことを語ろうとしなくてもいいですしね。
普段の生活のことや、自分の趣味のことなんかも混ぜながら、気楽な気持ちで、
ぜひ始めてみていただけたらと思います。



以上です。
改めて、Taikaさん、ありがとうございました!

ホーム

プロフィール

moonprayer / Mie

最近の記事

最近のコメント

カテゴリー

月別アーカイブ

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク

このブログをリンクに追加する

ブログ内検索

RSSフィード