moonprayer
 
次の自分のために準備する
「人生とは何か?」という問いに、徳川家康は、「人の一生は 重荷を負うて 遠き道を行くがごとし」という名言を残しました。私も、そのとおりだと思います。

イエス様は、そんな私たちに向かって、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい」と招いてくださいました。そして、「あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい」と教えられます。なぜなら、「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いから」と。

この、背負っている荷物は、その人の人格形成に大きく影響をしていると、私は思っています。
私も、自分が背負っていると思っているものの影響を少なからず受けて、こういう自分になっていると感じているからです。
それは、ある人から言われた言葉だったり、体験した出来事だったり。

今まで私は、こういうことをほとんど語ってきませんでした。なぜなら、お恥ずかしいことですが、こういうことを語り合い、ゆっくり分かち合えるだけの心親しい友というものを、私は持っていなかったからです。
私にとって、心を見せられるほどの友というのは、やっとこれからかなという頃に必ず私を嫌いになり、私から離れて、いなくなっていく存在でしかなかったのです。(推測される原因は、たぶんこれ→「今日気づいた自分の傷」)
そんな失敗と後悔と悲しみを繰り返すうちに、私は、誰かと親しくなることを強く恐れるようになり、人が怖くなり、そして、最後には自分が早くこの世からいなくなりたいと願うようになる。
私は、本当に自分がかなり嫌いなのです。
でも、神様は、それでも何かを私に伝えようとして、別の人の何気ない言葉や、目に止まった本、その他さまざまな出来事などを使って、時を逃さず常に私を慰め、励まし導き続けてくださっています。それだけは、いつも感じているのです。
私は、もっと神様から、受け取りたいと思うのです。

今年で、私は34歳になります。20代の時は、30代の自分のために準備をしてきたので、30代半ばにもさしかかったことだし、そろそろまた次の年代に向けて、私は準備をしたくなっています。
そのためにも、今年はとにかく、自分の背負っている重いものを、文章という形にすることによって、もう少し軽くすることを目的に、ひとつ取り組んでみたいと思います。

「冷たい人間」と言われてました
私が重く背負っていると思っているもの、まず1番目は、このことから語ろうと思います。

私は、実は、実家の家族の中では「冷たい性格」だとよく言われていました。
これ以外の評価は聞いた覚えがないくらい。

私の感覚が一般的ならば、人から冷たいと評価されて、嬉しいと喜べる人は、たぶんあまりいないだろうと思った上で書きます。
ほんとに、こういうところから自信のない臆病者でごめんなさい(苦笑)


一番覚えているのは、私が、小学校高学年〜中学生の頃で、ある日、母親と弟たちと居間ですごしていて、それぞれのイメージカラーは何色かという話になった時です。

「お姉ちゃんは、青色 とか 水色 ってイメージだよね」と、誰かが言いました。

私は、自分でもその色が好きだったので、好きな色がそのままイメージカラーとして言われたのを嬉しく思いました。
でも、その理由は「だって、お姉ちゃんは冷たいから」ということでした。
母親と弟たちは、みんな笑って納得していました。

今、客観的に過去の自分を回想し分析してみると、そもそも優しさを表現する術を、たぶん私はまだ知らなかったのだと思います。
過去記事(「私も、母も弟も寂しかった」)で書いたとおり、私は母親に対して寂しい思いを持っていたし、弟たちに嫉妬の心も持っていたと思います。
その心は、弟たちに対する小さな意地悪に表れたり、母親に対する距離をおいた態度になったりして、それは「冷たい態度」と映っても当然だったと思います。

でも、家族、特に親からの評価というのは、やはり特別なものがありますよね。
それがもう絶対的な正解だと、子供は思ってしまいます。

私って、冷たい人間だとみんなに思われているんだ・・・

何のたわいもないやりとりだったはずなのに、今もこうして忘れられないでいるということは、その時は全然自覚しなかったけれど、少なからずこの言葉で自分は傷ついたんだな、と。
弱点だったのだな、と理解しました。


そして、いつしかそれは、

私がみんなから愛されていないと寂しく思っていたのは、私が冷たい人間だったからだ。

冷たい人間は、良くない人間だ。

自分は、冷たい人間だから、良くない人間で、不要な人間なんだ。

自分=不要な人間

という、落ち込み思考のスパイラルにおちいってしまっていたというわけです。


愛されて、この寂しさから逃れるには、私は、このままの自分じゃいけなんだ。
人に優しくして愛されるように、なんとかがんばらなくちゃいけない。
色で例えるなら、オレンジ色柔らかい緑色 とイメージしてもらえるような人間に。

人間関係に失敗するたびに、ますますその思いに囚われていき、
さらに、際限なく、過剰なまでに誰にでも優しくあろうとする人間になっていってしまいました。


でも、神様の目には、一人一人、誰もがすでに虹色に輝いて見えているのかもしれませんね。
---
わたしの目には、あなたは高価で尊い。
わたしはあなたを愛している。
(旧約聖書 イザヤ書 43章4節)
---

いい子で優しくがんばる子だから愛されるのではなくて、
「ただそのままで、もうすでに神様に愛されている」ということを、
まずこの自分がしっかりと心に刻み直して、神様に癒していただき、覚えていけたらと思います。

実は、クリスチャンが怖い
私が重く背負っているもの、2番目は、これです。
この場でこれを語ることに、強い恐れがあります。
ですが、私が自分を語る時に、これはどうしてもはずせないことなので、
神様の前だと思って、正直に打ち明けてみたいと思います。


私は、高校2年生の時、たぶんいじめと分類される出来事を体験しました。
私にそうしたのは、つい前日まで、親友だと言い合うほどの仲だった女友達で、
ある日突然、彼女は、私を無視しはじめたのです。
明らかに、私がそこに存在していないというような態度の、「無視」といういじめでした。

直接理由を聞くことがどうしても叶わなかったので、
なんとか別の友人に、その理由を聞いてもらったところ、
「あいつは、偽善者で八方美人だから嫌い」ということでした。


前記事で書いたとおり、私は「誰にでも優しくあろうとする人間」になっていたせいで、
彼女にとって、私は、誰にでも愛想をふりまく、卑しい女だというふうに映ったようです。
これも、まぁよくありがちな展開ですね(苦笑)

でも、私はけして裏心があって、愛想をふりまくとか、そうしていたわけではありませんでした。
みんなそれぞれに、なんだかんだと悩みを抱えていて、一生懸命生きているんだなということがわかってしまうから、それを冷たく突き放すことは、自分自身にそうしてしまうことになりそうで、できなかったのです。

そういう私の態度が、彼女は不快だったのですね。
どうしようもなかったところもあったけど、もっと私も、やりようがあったかもなぁと、今では思います。


それ以来、私を不快に思い、嫌いだと言ってくる人の理由は、

「Mie は、偽善者くさくて、誰にでもいい顔をするから嫌い」

ほぼいつもこれですね。

「義人はいない」と、そもそも完全な善者はイエス様以外ひとりもいないのだからと、
神様は私を慰めてくださいますが・・・

そして、クリスチャンは、この"偽善者"という言葉がとてつもなく嫌いですよね。
だから、偽善者とすぐ言われやすい私は、クリスチャンが、けっこう怖いのです。

新約聖書 マタイの福音書 6章に、偽善者についての注意が書かれてあります。
トイレで祈るということも、これを固く守るための気持ちの表れでした。
奉仕活動などにかすかな恐れを感じることも、この気持ちからきています。


「自分自身にするように、隣人に対して心を尽くせ」という教えと、
「偽善者のようであってはならない」という教え。

一歩でも横に足を踏み外せない状態の細道に、私はいつも立たされていると感じてきました。
このバランスを保つためには、私はそのつどただ主に祈り、判断を仰ぐために、
一生すがりついていくしかないと・・・覚悟というに近い感情で、いつも思っています。
それでもなお、失敗しやすい私です。


以上、この2つ、

家族からは、冷たいと言われること と、
友達からは、偽善者と言われること が、

私が一番重いと思って背負っている荷物です。

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