moonprayer
 
自分の色を取り戻す
ようやく、ようやく、今度こそ。自分の本来の、居心地のいい色を、しっかり取り戻せてきたかな・・・と思える今日この頃。
やっぱ、ここ(FC2)のブログ環境が私には合ってるなぁ。
この自由な空間で、また自由に自分を表現して語っていこう。

ただいま、私。おかえり、私。
これからも末永くよろしく、私。

誇れるものはほとんどないけど
クリスチャンとして、自分は何が誇れるかと聞かれても、私はほとんどそんなものはもっていない。
神学校には通ってないし、奉仕らしい奉仕もしてないし、伝道活動だってやったことない。イベントにも参加したことない。
熱く伝えられるものも、聖書の解き明かしもできない。
結婚は一応してるけど、ただの主婦だし、子育てだってしてないし。なにか病気と闘ってるわけでもないし・・・
言葉だって、全然知らない。デボーション? シェア? ユース? 初めて聞いた・・・
別になにか大きなことができるだなんて考えてはいなかったけれど、
私の存在は忙しい皆にとって、邪魔になってこそすれ、役立つなんてことはないなと悟った。
私ほど、何にもしていないクリスチャンはいないだろうって、それが誇れることかも。
私はきっとこのブログ村の中で、一番忙しくない語れないクリスチャンだと思う。
でも、焦ったりはしない。劣等感にさいなまれて誰かと競って焦るレベルじゃないんだもん。
完全にお手上げ。人間が違いすぎるんだな。

だから、私は、ただゆっくり皆を見ていこう。読むことは好きだから。
それから、黙って祈っていこう。それだったらできるから。
できないことを嘆いてもしょうがない。できることがあるかぎり、それに集中していけばいい。

私の誇れることは、忙しくないこと。祈れること。

トイレで祈るクリスチャン
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あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
(新約聖書 マタイの福音書 6章6節)
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はっきり言って、これはカッコよくもなく、自慢も推奨もできないことではありますが、私なりに考え行き着いた、私が実際に毎日やっていることを、今日は正直に明かしてみます。

誇れるものはほとんどないけど」で、祈ることはできると書いた私ですが、じゃあ具体的にどこでどんなふうにして祈っているかというと、私の一番の祈りの場所はトイレです。

自営業の我が家は、家に旦那さんがだいたい一日中います。だから、リビングに一緒にいれば、コーヒーをお願いされることもあるし、テレビをつけていることもある。だから、自由に、誰にも見られず、一人で、静まって、最後まで集中してじっくり祈れる場所といえば、トイレがうってつけなのです。体勢的にもね、座って、手を組み合わせて、頭を垂れる・・・もうこれで、楽に祈りのスタイルがとれるのです。
体から悪いものを排泄し、清い霊を祈りによって新しく取り込む。むちゃくちゃ理にもかなっている・・・と、私は思っています・・・

一番簡単な主の祈りで1分くらい。なにか深く祈ると、3分〜5分くらいはすぐに時間が経ちます。その間、トイレにまで来て呼ばれることはないし、不審に思われることもない。
それで、そんな短い祈りを、トイレに行くたびに癖のようにしているだけで、一日に5回〜10回くらいはトイレに行くと思うから、1回の祈りが平均3分として、10回行くだけで合計30分もの祈りができることになる。
平均30分の集中した祈りが、毎日、これでわりと簡単にできてしまうというわけ。
教会が遠くて毎日気軽に通えなくても、なかなか一人にはなりにくい環境でも、ドタバタしてちょっと聖書を開く時間がもてなかった日でも、喜怒哀楽どんな気持ちの状態の時でも、トイレには必ず行くから、こうやって毎日細かく頻繁に神様と対話することだけは、絶対にできるというわけです。

あまりにもトイレに長居しすぎると、リビングに戻ってきた時、たまに言われます。
「あれ。今までトイレにいたの?」って。
でもそこで、祈ってたんだもんとは言わない。「なかなか出なくってねー」
別に彼は私が便秘症だからって気にする男性ではないので、「ふ〜ん。あ、コーヒーお願いできる?」 「は〜い」と、私は快く返事ができて(これも祈って平安になれているおかげ)、穏やかな時間をそのまま続けていけるのです。

神様だけが知っている、私の祈りのスタイル。
どんなに美しくなくダサくても、祈りの心は真剣なつもり。
実際に、この祈りの時に、神様から言葉をもらうこともたくさんあります。
私のトイレタイムは、とてもほっと落ち着く、私だけの大切な祈りの時間なのです。

優等生から劣等生へ
クリスチャンになる前の私は、いわゆる「優等生」でした。
成績もいい方で、高校の時は生徒会長なんかもやって、短大は推薦で入ったり。
就職先も、第1希望一社目で一発採用でした。

まじめで、いい子で、おとなしくて、しっかりもので、お姉ちゃんで、強くて・・・

う〜ん・・・ちょっと違うんだけどな・・・と、心なしか苦しくは思っていたのだけれど、
そのイメージを自分で壊せずに、ずっとその役を、皆に嫌われたくなくて演じてきてました。


そんな私が、1つ年上の旦那さんと結婚して、初めての土地に来て、クリスチャンになって・・・
なんにもわからない、ドジもいっぱいして、とことん劣等生な自分に焦り、落ち込みました。
クリスチャンとしての劣等感だけではなくて、北海道人・福岡人としてもそうだった。
旦那さんのご両親は大阪出身なので、彼も義両親も、福岡弁というよりは大阪弁口調です。だから、福岡・博多のことについても、本当の地元人とはちょっと違います。
それから、出身地の北海道のことについても、私はほとんど興味がなかった(正直、故郷を愛していなかった)ので、こっちの人に北海道の話を聞かれても、なんにもまともに答えられなくて。

いい大人になるまでずっと、こんな優等生ぶった自分でいたから、
それから自分を打ち砕いていくのは、かなり痛い作業なんですよね。
さらには、自分のことが嫌いだという傷 (「一年で一番嫌いな日」(旧ブログ)) も抱えていて。

クリスチャンとしても、一般人としても、
北海道人としても、福岡人としても、大阪人としても、
自分には、これだとしっかり根付いているものがなんにもなくって、
どれもこれも中途半端で、そんな自分がますます好きになれなくって、
本当に本当につらくてみじめだった。


こうしてできあがった今の私。
中途半端に北海道弁と大阪弁と福岡弁を話す、まだかなり小心者の、
神様のことを勉強途中・成長途中の、ただの小学生主婦クリスチャン。

でも、今までよりは、かなり自分のことが好きになれている。
まずまずのもんかなと、まあまあ自分を気に入っている。そう思えるようになっている。

まあ・・・悪くない・・・かな。って、
まあ・・・あんま気張らんと、気長につきあってこうや。って、

自分に対して、そう思えるようになれたことが、本当に嬉しい。

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恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。
わたしはあなたの名を呼んだ。
あなたはわたしのもの。

わたしの目には、あなたは高価で尊い。
わたしはあなたを愛している。

(旧約聖書 イザヤ書 43章1節・4節)
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優等生から劣等生へ。
そして今、やっと、一人のただの"わたし"として、
神様の前にこれたかな・・・と感じています。

私も、母も弟も寂しかった
私は、幼い頃、両親と一緒の寝室で寝たことがない。
祖母が、長女第一子である私を非常にかわいがって、私はずっと祖母と、祖母の部屋で寝ていました。
だけど私は、物心ついた時、両親(特に母親)と一緒に寝ている弟たちがうらやましいと思った。
私は、母との思い出が少ないことに、寂しさを感じるようになった。
私は、母からは、弟たちのようには愛されていない・・・そんなふうに思って、甘えることを上手く覚えられなかった。

20歳になった頃、きっかけがあって、母親に、自分はずっとそんなふうに寂しく思っていたことを打ち明けた。
そうすると母は、涙を浮かべて言った。「私も、あんた(Mie)が、お祖母ちゃんに取られてしまって、手をかけて面倒をみてやれなくて悲しかった。洋服も作ってやりたかったし、仲良く手をつないで一緒に歩いている母娘を見るたびに、とても寂しく思っていた」と。
私のこと、そんなふうに思ってくれてたんや・・・って、びっくりした。


また、私に一番近い2歳下の弟は、中学〜高校の時に、思春期特有のすごい反抗期になって、両親を悩ませていた。
私は、それを腹立たしく思っていた。なんで、ちょっと考えたらわかるような、そんな悪いことをするんだろうと、理解できなかった。
でも、これも同じく私が20歳頃の時、私は、わがままし放題の弟の態度に、とうとう怒りを爆発させて、弟ととっくみあいのケンカをした。
小さい頃から、この弟とだけはそんなケンカをする仲だったが、20歳にもなった姉と、ヤンキーの弟で、つかみ合い、叩きあいのケンカをした。
その時、弟は私に叫んだ。「姉ちゃんがうらやましい! 成績も良くていい子で、皆にかわいがられて! でも、俺は落ちこぼれで、家でもいっつも一人で寂しかった!!」と。
なに言っとんねん・・・うらやましく思ってたのは私の方なのに・・・
弟同士(4人姉弟)で、私はあんたたちが一緒に遊んでる中に入れなくて、私の方こそ、あんたのこと、うらやましく思ってたのに・・・
ちっちゃい頃から、あんたはお母さんたちと一緒にいて、私の方が寂しかったのに・・・
悪いことして、みんなに心配してもらって、私はそんなことなんかしてもらったことなくて、あんたの方が何十倍もうらやましいと思ってたのに・・・
でも、あんたは真ん中の子で、私とかさらに下の弟のこととか、そんなふうに見てたんやね・・・

なんや・・・お母さんも、弟も、みんな似たような寂しさ抱えて、お互いに誰かをうらやましく思ったりして、ずっと過ごしてたんか・・・

それが分かった時、心の目が開かれた気がしました。


今こうして、当時の母親の年齢をなぞるようになってきて、本当によくわかる。
母親だって、こんな若い人間だったんだな・・・って。
普通に悩んで、寂しく思って、それでも一生懸命、私たちに接してくれてたんだな・・・って。
そして、若い時の自分を振り返って、改めて恥ずかしく思う。
親ってもんを、大人ってもんを、自分と同じ人間扱いしてなかった。
自分勝手なこと言って、傷つけること言ったり、やったりしても、なんとも思ってなかった。
その言葉を、自分よりも若い人に言われたら、こんなにも悲しかったんだ・・・って。
今自分がそう思うように・・・他の人にも、こんなことをしてきてしまったんだなって・・・

子供だって、大人だって、女性だって、男性だって、
みんな、なんだかんだいって、同じような寂しい思いを抱えて生きているんだなって、
語りつくせないいろんなものを、一人ひとり、それぞれに、
いっぱい背負って生きてるんだな・・・って。

少なくともこの自分がそうであるように・・・みんなもそうなんだなって・・・


今、母親とは、あいかわらずお互いに、ちょっとだけ遠慮がちな、おもはゆい関係ではあるけれど、母が電話などで、ちょくちょく愚痴を私に預けてくれるのが、感謝な役目だなと思っている。
私は、預けられるそれらに、聖書の教えを守りながら、自分が今もっているかぎりのとりなしの言葉を尽くし返すことで、日々の実践の中で、神様に鍛えられていると感じている。
そして、同じ歌手のCDをお互いに買っていたりして、「そうそう。これいいよね!」と、一緒に盛り上がれる瞬間が、とても幸せだなと思う。

また、その弟は、中学生の頃から弟を好いてくれていた幼なじみの同級生の女性と、地元で結婚をして、子供も産まれて、夜勤のある奥さんの代わりに子育ても積極的に参加する、むちゃくちゃいいパパをしている。
彼が私の生家の長男でいてくれて、私の方こそ尊敬せずにはいられないほどの、カッコいい弟でいてくれて、私は本当に幸せな姉だなと思う。

あと二人弟がいるけど、彼らもまた、それなりに毎日、なにかを思いながらいるんだろうと思う。
だって、この私だって、その年代の頃、そうだったんだから。
今度機会があったら、私のこの昔話でもして、あんたもなんか寂しい思いとか持ってたりしたん? と、ぶっちゃけトークができたらいいなと思っている。
そんなこと思わずに、のほほんとしてくれてたなら、それはそれでよかったなと、安心すればいいだけのこと。
でも、そうじゃなかったなら、遅くなったけれど、今からでも、知ってあげられたらと思う。
まぁ・・・知ったからといって、それ以上なにかができるというわけでもないんだけどね。
だけど、ごめんねって、謝るだけはしなくちゃなと思ってます。
そして、変わらず応援して、最後まで神様に彼らの祝福を祈り続けなくちゃなと、
私がこれからできることとして、使命感をもって、強く思っています。

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『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』

(旧約聖書 レビ記 19章18節)
(新約聖書 マタイの福音書 19章19節)
(新約聖書 マタイの福音書 22章39節)
(新約聖書 マルコの福音書 12章31節)
(新約聖書 ルカの福音書 10章27節)
(新約聖書 ローマ人への手紙 13章9節)
(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 5章14節)
(新約聖書 ヤコブの手紙 2章8節)
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このみことばを学ぶ時、私がいつも思うのは、母と弟との、この出来事。
私がずっと、寂しいと思ってしまっていたように、母も、弟も、みんな同じようにそう思っていたんだということが心から分かった、絶対に忘れられない、この出来事。

この出来事は、間違いなく、私の基本姿勢の土台の一部になっている、宝物の出来事です。

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